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仕事以外真剣。

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「真剣にやれ!仕事じゃねぇんだ!」人生の師と仰ぐタモリ氏の名言に従って生きることに決めました。

My Favorite Cars⑧ たま号



戦後を駆け抜けた意地の結晶






My Favorite Cars⑧ たま号_b0040606_178970.jpg






この車を一目見てそれとわかる方はかなり自動車の歴史に精通した方だろう。
大多数の人は恐らく見たことも聞いた事も無いに違いない。
しかしこの車は、日本の自動車史に残る大いなる金字塔と言っても過言では無い。


戦後間も無い昭和21年、戦争によって全国の半数以上の自動車が焼失し、GHQによる占領政策によって飛行機をはじめとする重工業が禁止されていた時代にこの車は生まれた。


製作元は立川飛行機工業。戦時中、東京都立川市に工場を構え、戦闘機「隼」や爆撃機「キー47」などを生産していた当時国内有数の戦闘機メーカーである。


占領下の日本において立川飛行機工業は飛行機の生産を禁止され、その施設の約7割がGHQにより接収。企業は解体の道を選ぶほかに無いと思われた。


しかしそんな中ただ一人、航空機生産の技術を生かして自動車を作ろうと提案した者がいた。
立川飛行機技術部長、外山 保。


外山は「日本の戦後復興、物流の安定には自動車は欠かせない。」とGHQを説得、激しい議論の末に何とか自動車生産の許可を獲りつける。


こうして立川飛行機工業自動車部門が誕生するのだが、単に自動車生産といっても車を走らせる為に無くてはならない燃料、つまりガソリンが当時配給制だった為そう簡単に手に入る代物ではなかった。そこで外山が目をつけたのは末端の使用機器が破壊されていた為ほとんど使われる事無く余っていた、電気。


そう、この車は戦後作られるべくして作られた、電気自動車なのである。


車体の設計、製作は航空機で培われた技術を使い、自社で生産できる。そこに外注したバッテリーとモーターを組み込んでEOT-46という試作車が2台完成する。


しかし試作車の実験に成功、量産化のめどが立ち始めたこの年の12月、ついに立川市の工場が全面接収。しかし外山は諦めることなく自動車部門を立川飛行機から独立させ、新たに府中市に工場を移転。


こうして翌昭和22年、日本初の量産電気自動車「E4S-47」が完成する。
ちなみにこのE4S-47という名前であるが、Eが電気(electric)、4が4人乗り、Sがセダンボディ、47が1947年製を意味する。そしてこの年の8月、E4S-47は工場のある土地にちなんで「たま号」と名づけられ、市販がスタート、会社も東京電気自動車と名を変え、新たなスタートを切る。





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全長3m、全幅1,3mの車体下に湯浅蓄電池社製2Vバッテリーを左右に10個ずつ搭載、それによって駆動する日立製電気モーターは定格出力4,5馬力。最高時速35km、平均速度28kmで96.3kmを一充電で走破する。
走行中でも予備のバッテリーを充電しておけば簡単な交換作業で長時間の走行が可能な設計がなされていた。


実は電気自動車を開発していたのは東京電気自動車だけではなかったのだが、この年に行なわれた電気自動車性能試験において13項目あるテストのうち12項目でトップの成績を上げるというブッチギリの高性能だった為、たま号は予想以上の人気を博し、25万円であった市販価格にプレミアがつき、市場価格45万円でも売れたという。


こうして大人気となったたま号を改良し、翌昭和23年にはボディーを大型化した「たまジュニア」を発売、更に4ドア5人乗り、出力5.5馬力の「たまセニア」を開発する。このたまセニアは第2回電気自動車性能試験で今度は一充電で10時間、距離にして230kmを走りきるという脅威の性能を発揮、その技術の高さを知らしめる。


しかしその人気の高さとは裏腹に、府中工場の生産能力は月に20台が限度。これでは採算が獲れるはずも無く、間も無くして会社は深刻な経営難に立たされる。
そこに救いの手を差し伸べたのはブリジストン・タイヤ創始者の石橋 正二郎。


外山から出資の依頼を受けた石橋は、「それならその電気自動車をウチまで届けてくれたまえ。」と要求。
東京・麻布にある石橋邸までたどり着くには都内屈指の急な坂道、鳥居坂を登らなくてはならない。
それ自体が電気自動車の過酷な性能試験というわけだ。
しかしたま号は鳥居坂を難なく走破。すっかり感心した石橋は即座に500万円を融資する。


こうしてすっかり経営も立ち直った東京電気自動車は生産性の向上のため三鷹へ工場を移転。そして前年開発したたまセニアを市販化し、年産400台にまで生産規模を拡大。
ちなみにこの電気自動車が普及した為、当時赤坂の料亭の営業時間が2時間延びた、とさえ言われている。


しかしそんな絶頂期も長くは続かなかった。
昭和25年に朝鮮戦争が勃発、バッテリーの材料である鉛の価格が何倍にも高騰、加えてこれまで配給制だったガソリンが市場に大量に流通し始めた為、もはや電気自動車のメリットは無く、昭和26年、東京電気自動車はわずか5年で電気自動車の生産を終える事になる。


そしてガソリンエンジン自動車への転換を図った同社は翌27年に排気量1.5リッターのセダンを発表、この年の皇太子殿下(現・今生天皇)の立太子礼にあやかり、その車は「プリンス」と名づけられ、社名も「プリンス自動車工業」と改名、現在の日産自動車に吸収合併されるまで天皇家御料車の「プリンス・ロイヤル」や高級車として知名度の高かった「グロリア」、更には現在でも日産自動車の代表車種といえる「スカイライン」を世に送り出す。


戦争によって生まれ、戦争によってわずか数年で散っていった日本の電気自動車。
そして現在再び代替エネルギーとして注目を浴びる電気自動車。
当時は物資不足、現在は環境対策と目的は違えども、その技術によって目指す場所は変わらないはず。
それゆえに戦後何も無かった時代に技術者達の意地と努力で作り上げられたこの車を、どうか憶えておいて頂きたい。
by jpslotus2000 | 2006-09-16 18:48 | 車好き。 | Comments(8)
Commented by J at 2006-09-19 00:37 x
「意地の結晶」というよりも、意地で書いた文章に感動しました。
それにしても、戦後すぐにこんな物作ってたのに、今、公道走れる
のは、ハイパーミニとチョロQと鉄腕DASHのソーラーカー
しかない日本でいいのだろうか・・
ちなみに自分が初体験した電気乗用車は、千葉ニューナラヤの
屋上にあった100円で動くやつだ。
Commented by ナベゾ at 2006-09-19 08:57 x
やっぱ日本人は凄いんだ!
その凄い日本人の血が、少しは流れているんだと自分を励ましながら今日から週末までのお仕事に努めます。
連休明けはツライ・・・・・
Commented by naoki at 2006-09-20 13:39 x
 この文章がアツ過ぎて、コメント書きづらいです。

 この車って、僕の父親より上なのに・・・。スゴイなぁ
Commented by jpslotus2000 at 2006-09-20 16:31
attn:Jさん。

いやいや、このくらいの文章なら余裕っすよ、何たってマニアですから。(笑)

まあ自分も数年前にこの車の存在を知った時には驚きましたけどね。
こんなに凄いのに資料が少ないんだコレが。
Commented by jpslotus2000 at 2006-09-20 16:32
attn:ナベゾさん。

あ、日本は連休だったんですねぇ・・・
ナニ連休なのかすっかり忘れてますけど。(汗)
Commented by jpslotus2000 at 2006-09-20 16:33
attn:naoki

そう。コメントしづらいに違いない。
前の丸ごとバナナと比べるとコメント激減。(笑)
Commented by たま at 2009-08-02 15:52 x
たまセニアっていまの電気自動車より性能いいんですね〜
でもガソリン車に負けて衰退…
ってことは、いまのEV祭もそろそろってことですかね
Commented by jpslotus2000 at 2009-08-07 15:34
attn:たまさん。

いや、今のEVはまだまだ発展途上。
というかガソリン代替エネルギーの開発自体が滞ってますからね。

とは言えうすうす感じているのは、

「いまだにガソリンエンジンが主流なのはスーパーメジャーの圧力なんじゃなかろうか?」

という事です。
いーや、絶対にそうだね。(笑)

by jpslotus2000