My Favorite Movies. 27
本日は、いつ振りでしょうか超久しぶりになりますが映画のお話です。
今回ご紹介するのは、こちら。
PANTANI ~海賊と呼ばれたサイクリスト~
今じゃ映画の話も自転車絡みかって声も聞こえてきそうですが。(笑)
この映画は、1990年代に活躍した今や伝説のクライマー、マルコ・パンターニのドキュメント映画です。
ドキュメント映画なので、純粋に映画が好きという方にはキビシいわけなんですけど、その昔にご紹介したこともあるアイルトン・セナのドキュメント映画みたいな感じです。
しかも日本ではセナみたいに有名な人というわけではないので、この映画も今現在は単館上映。
新宿のシネマカリテでのみ上演されてます。ええ、もちろん新宿まで観に行ってたわけですが。
で、このマルコ・パンターニというロードレーサーですが、1998年にジロ・デ・イタリアとツール・ド・フランスを総合優勝し、同一年に「ダブルツール」を達成した現在最後の選手になります。
山岳での圧倒的な強さとスキンヘッドにバンダナ、そしてピアスと言った風貌から「海賊」とのニックネームで人気を博した不世出のクライマーでした。
折しも彼が活躍していた当時、ワタクシ的第一次自転車ブームの真っ最中でして、ヤン・ウルリッヒ、リシャール・ヴィランク、パヴェル・トンコフやトニー・ロミンゲルなどと鎬を削っていた彼をスカパーなんかでよく映像を追っかけていた思い出があります。
そして、その時代に蔓延したドーピングスキャンダルの黒い影の記憶もまた然り。
そんな混沌とした時代に不動のエースだったパンターニ。
しかし彼もアイルトン・セナのように純粋に誰よりも速く走ること、純粋にアスリートであることを追い求める中で、現在のプロスポーツ界では無視できないカネと政治の犠牲者となってしまったような気がしてなりません。
そんな外的圧力と、ドーピングスキャンダルによるマスコミの好奇の目に晒された彼の繊細な心は徐々に崩壊へと向かっていき、そして2004年2月14日、イタリアの地元に近い二ミリの街のホテルの一室で非業の死を遂げているのが発見されました。
そんな彼の栄光と挫折、強すぎるが為、純粋であったが為の悲劇の生涯を収めたドキュメントです。
とにかく、全盛期の彼の山岳での走りは神の領域でしたね。
1997年のツール・ド・フランス13ステージのラルプ・デュエズは自転車乗りの間では今でも語り草になってますが、その2日後の15ステージのたった1度のアタックでライバルを一瞬にして置き去りにしたナイフが如き切れ味も私の中では非常に衝撃的だった思い出があります。
彼の写真の中で最も有名なうちの一枚。
おそらく97年のラルプ・デュエズの時のものだと思います。
見よ、後ろの観衆を。
この翌年、98年には先ほどお話した通り、ダブルツールを達成して、彼のキャリアは絶頂を迎えます。
しかし翌年、ジロ・デ・イタリア連覇目前に不可解なドーピング検査で陽性と判断され、失格の裁定が下されます。
この検査に関しては現在もその行程が疑問視されており、彼が亡くなった今、その真偽は永遠にグレーのままと言う事でしょう。
しかしたとえ結果が黒であれ白であれ、当時の彼が自身の主張を通すチャンスは果たしてあったでしょうか?
中には自らの選手生命と引き換えに、声高に反ドーピングを叫んだクリストフ・バッソンスという選手もいます。
しかしパンターニがバッソンスと同じ事をするには、彼は繊細過ぎ、何よりもあまりにも有名になり過ぎていたのではないかと。
チームスポンサーからは利益を要求され、団体からは政治的圧力をかけられ、そしてマスコミからは尊厳を搾り取られ、ただ純粋に速く走る為に自転車に乗る事も出来ず、頼れる者も無く失意に苛まれた悲劇のチャンピオン。
2000年のツール・ド・フランスで彼と総合を争ったランス・アームストロングは、その後自らドーピングを行っていたことを認め、全ての記録を剥奪されました。
パンターニに関しては、現在の検査方法で検証したうえでは他有力選手ともども、ドーピング使用の疑いがあるとのこと。
しかし当時の検査方法ではそれはドーピングとして認められておらず、その為に彼の成績は残されたままではあります。
ドーピングが良い事だとは万に一つも私は思いません。
しかしドーピングを行った選手にはそれ相応の理由は必ずあり、それが自発的なものなのか、それとも他者が強制的に関与した物なのか、もしくは当人が知らないうちに行われていた可能性だってあるはずです。
ドーピング検査での結果といった表面上の事実のみを取り上げ、その根底にある問題に目を背けるがごとき報道や、その矢面に立たされる選手たちがまるで「蜥蜴の尻尾」のように扱われているような印象を、この映画からもそうですが、パンターニの死や、バッソンスの不遇や、アームストロングの告白から感じずにはいられません。
元来スポーツというものは純粋に自己の鍛錬によって他者との競争に打ち勝つこと、記録を伸ばすことが本質であり、そこに金銭や政治が介入すればそれはビジネスでありスポーツなどでは無くなる。
そういった意味では、極論としてどんなに鍛錬を重ねても金銭や物品的利益に与る事のないアマチュアこそが真のアスリートであるという結論に辿り着いてしまう。
そのアマチュアや趣味でスポーツを楽しんでいる一般人が憧れる先にプロのアスリートが存在するならば、自転車乗りとして彼の死の意味や、プロ選手になったが為の苦悩をこのドキュメント映画から汲み取り、一人一人がそれに対して考える必要があるんじゃないかな?って、この映画を観終わった時、ふとそう思った次第です。